真木 蔵人

父・マイク眞木の影響でラグビーとバイクに夢中になり、少年時代を過ごした真木蔵人。
その後、サーフィンに夢中になり、二年間のカリフォルニアでの修行で世界トップクラスに。
今では北野武監督の映画にも“定番”である真木蔵人のストーリー。
1972年、10月3日、マイク眞木を父に、前田美波里を母に、四谷にある慶応病院で真木蔵人は生まれた。
蔵人の名前は、マイクの「世界に通用する名前を付けたい」という想いをもとに、祖父・小太郎が命名した。
小さい頃からとても活発でじっとしていない子だったという。
当時の時流に比べて、破天荒な生き方をしていた父・マイク眞木。
そのせいか、周りには魅力的なものがたくさんあった。
小さい頃から始めたスキー、ポケットバイク、
9歳になる頃にはモトクロスを始め、マイク眞木が経営していた
富士山の麓にあるモトクロスコースで走るようになった。
また、半分マイク眞木に強制されて始めたラグビーにも次第にのめりこんでいった。
しかし、ラグビーは進学した高校にラグビー部がなかった事から、
自然とやめてしまった。
バイクだが、蔵人が物心ついた頃にはポケバイやら、トライアル、
ハーレーなどいたるバイクが家に転がってたという。
蔵人を幼稚園まで、ハーレーのサイドカーに乗せて送り迎えした父・マイク眞木。
そして自転車の補助輪が取れる頃にはバイクに乗せられてたという蔵人……
モトクロスにはまり、すぐYZとピックアップカーを購入し、
モトクロスコースまで作ってしまう父・マイク眞木にはあきれるばかりである。
反面、やりたい事を、何のためらいもなくやれる、というのもうらやましい。
マイクス・パーク(父・マイク眞木が作ったモトクロスコース)でのシリーズ戦以外にもいろんな試合に出た真木親子。
蔵人曰く、「でも、楽しかったな。毎週連れていってもらってああいう時間を過ごせたのは、オレにとってすごい貴重な体験だったと思う。
モトクロスだけじゃなかったし。バーベキューがあったり、紅葉が見れたり……(略)……
自分のコース(マイクス・パーク)では誰にも負けないつもりだったし。
負けず嫌いだったし、試合のコンセントレーションが出来るようになった。
そういう事はサーフィンのコンペティションにもすごく生きてると思う。……(略)」
父・マイク眞木:「毎週一緒に行ったな。」
蔵人:「て言うかさ。子供を遊びに連れてくっていうんじゃなくて、自分が遊びたいからなんだよね。絶対そうだと思うんだ。
今、オレ、よくわかるよ。買い物行くにしても『いやぁ、蔵人がなぁ』っていって、ちゃんと2セット買ってあるんだよね、自分のも。」
父・マイク眞木:「そう、子供と遊んでるフリして自分が遊んでるみたいなね…」
モトクロスのほうは15歳ごrまで続け、メキシコのバハ・カリファルニアで行われる
オフロードバイクのレース、バハ1000にも二度出場した。
14歳の時、父・マイク眞木とアメリカのオフロード専門誌『ダートライダー』の
ライターと共にこのレースに参加した時、蔵人はアゴの骨折という大怪我を負った。
転倒の恐怖や痛みについては全く話さないが、
レース中にバイクにサーフボードを乗せているチームがいた事、
海岸線に延々と波が打ち寄せていた事などはよく覚えているという。
この時入院した病院があるサンディエゴが後の自分にとって
大きな意味を持つ場所となった事に不思議な巡り合わせを感じるという・・・
その3年後に再びバハに出場して以来、1999年までバイクには乗っていなかった。
それ以降はサーフィン一色だった蔵人。
蔵人とサーフィンの出会いは、中3の夏休み、14歳の夏の事だった。
「サーフィン、面白いぜ。」悪友の一人が蔵人をサーフィンに誘った。
蔵人の初めてのボードは隣の家の人に借りたライトニングボルトの青いシングルフィン。
しかし、蔵人も例外ではなく、思うようにボードに乗れず、何がなんだか分からなかったという。
しかも、その時、海の家の看板を燃やしてしまったという逸話がある。
その後も何回かサーフィンに行ったものの、しだいに海に行かなくなった。ラグビーにバイク、他にも楽しい事がいっぱいあったからだ。
1987年、蔵人は突然スポットライトの下に立たされる事になった。
NHKの大河ドラマ『武田信玄』で俳優としてデビューしたのだ。
父・マイク眞木と新聞の親子インタビューに載り、それに注目したNHKのプロデューサーが蔵人にその話を持ちかけたのだ。
俳優への興味のなさから一度は断ったものの、プロデューサーに当時放映中の『独眼流正宗』の現場を案内され、
「芝居は稽古をつけてやるから、やってみないか」と説得されやってみる事に。
「『やりたい』っていうわけじゃなかったけど、やってみる事にしたんです。
若かったし、なんでも刺激が欲しかったから」と蔵人は言っている。
年が明け、正月に放映された『武田信玄』。信玄の幼少時代を演じた蔵人に大きな反響が巻き起こる。
最初は一話だけに登場する予定であったが、あまりの反響の大きさに脚本が書き換えられ、その後何話かにも登場する事になった。
そして、最終シーンを取り終えた後、蔵人は不思議な体験をする。
自然に涙がこみ上げてきたのだ。自分が役者だと言う意識など全くなかった蔵人。
「与えられた宿題みたいだった」と蔵人は言う。
しかし、涙は止まらなかった。 そしてその涙によって、
「芝居をすることが自分にとってポジティブな事なのだと受け止めた」
その後すぐに芸能事務所からオファーがあり、テレビドラマで宮沢りえと共演。
本人が望むと望まざるにかかわらず、俳優・真木蔵人としての人生がスタートした。
「役者になると決意したわけじゃなかったけど、とりあえず芸能界でやってみよう…」
その春、蔵人は堀越高校に入学した。
すでに、中学卒業と同時に、渋谷で一人暮らしを始めていた。
同じ頃、蔵人は再びサーフィンに通うようになっていた。
自分のボードを手に入れ、電車で海に通った。
友達に遅れをとるのがいやで、サーフィンに行く、という行為自体が目的だった頃とは違い、
今度は波に乗るために海に行くようになっていた。
仕事をして学校に行くとサーフィンする時間なんて残らない。友達とも遊びたい。
しだいに学校とは反対方向の電車に乗り、サーフィンに行くようになり、
高校入学からわずか一ヶ月あまりで高校をやめてしまった。
「若い頃は毎日がパッション。そんなに先の事なんて考えない。
その夜友達と遊べるか、仕事が遅くなって遊べないか、そういうことだけが大切だった。」
蔵人は次第に攻撃的な雰囲気を身にまとい、危険な雰囲気をただよわせるようになった。
渋谷での一人暮らし、その年齢にしては十分すぎる金も持っていた。
街をふらつく事が増えたが、それでもサーフィンは続けていた。
仕事では、スタッフとぶつかったり、サボる事も多くなった。
15歳から18歳までの3~4年間、蔵人は仕事の合間を見つけては、海へ出かけていった 。
電車で鵠沼に行く事が多かったが、そのうちにそもそもの地元の先輩である赤坂の先輩に連れられて
千葉に行くなど、少しずつ行動範囲を広げていった。
そんなある日、蔵人はサーフィンを続けてきた中でも特に忘れられない瞬間に出会い、
その日を境に、蔵人にとってサーフィンはなくてはならない存在になった。
サーフィンを再開して半年ほど経った15歳の初夏。千葉の鴨川に行った時のこと。波は肩ぐらいのサイズだった。
それまでにボードの上に立つ事は出来るようになってはいたが、波が切り立ったところでボードに立ち上がっても、
そのまままっすぐ岸へ向かってスープ(崩れた後の白波)の中を進むばかりだった。
ところがこの日、波をつかまえ、ボードに立ち上がると、今まさに崩れようとする波の斜面を
横に向かって滑る事が出来たのだ。
「楽しい」
蔵人は心の底から、そう感じた。
少しずつ上達し、サーフィンの楽しさを発見していった蔵人。
コンテストにも出場し、海外にもサーフトリップに出かけるようになった。
カリフォルニア、ハワイ、バリ。波を求めて海外へ出かけ、初めての海に緊張しながら入っていく。
世界中に波があり、その海は日本にもつながっている事を知る。
同時に、同じ波でもそれぞれ違った顔を持っていることを肌で感じる。
旅先で出会う様々な国のサーファー達。
同じ波を愛する仲間として、言葉や人種を超えて同じ価値観を持つ彼らとの出会いは、蔵人に多くのことを教えた。
ある日、蔵人はスパッと芸能界から姿を消してしまう事になる。
北野武監督・脚本の映画『あの夏、一番静かな海』は、耳の不自由なサーファーを描いた作品である。
主役を演じた蔵人。
サーフィンに出会い、しだいに上達していく耳の不自由な青年が淡々と描き出され、最後に主人公は海に出たまま姿を消してしまう。
主人公のせりふがまったくない、異色の作品だったが、玄人筋に高い評価を得た。
そして、この映画がクランクアップし、打ち上げに出席した3日後、蔵人は日本を後にする。
普通、主役には撮影後に映画の宣伝の仕事が待っているが、蔵人はそれをすっぽかして、カリフォルニアに旅立ったのだ。
スタッフには誰にもその事を話さなかったが、ただひとり、監督の北野武にだけ、日本を後にする事を告げていた。
彼なら理解してくれると感じていたのだろう。
「おー、いいよ、いいよ。また行っちゃうのか。本当に好きなんだなー」
北野の返事はそれだけだった。
蔵人はこの時、2ヵ月後には帰ってくるつもりでいた。
しかし、蔵人は、そのまま約2年間日本に帰ってくることはなかった。
帰りのチケットを破り捨て、ゴミ箱に捨てる瞬間を、蔵人は今も覚えていると言う。
"I just wanted SURF"
「僕はただサーフがしたかっただけなんだ」と……
ともあれ、18歳の真木蔵人は、それまで歩んできた人生からドロップアウトした。
敷かれたレールの上を歩くのをやめ、自分自身で、自分の人生を切り開き始めたのだ。
全てを捨て去った蔵人。
だが、サーフィンだけは彼と共にあった。
サンタモニカ、サンディエゴ、そして、紀藤雅彦との出会い。
約2年後の10代最後の週、蔵人は大会初優勝を成し遂げる。
その夜、紀藤の家で撮られた、トロフィーを手に、目に涙を浮かべた蔵人の写真が残っている。
それまでの毒のある攻撃的な表情が消え、写真の中の蔵人は、どこか優しい目をしている。
93’1月、20歳になった蔵人はカリフォルニアを離れ、日本に帰ってくる。
ガールフレンドとの決別、長男ノアの出産、全日本サーフィン選手権大会への出場……
この大会を蔵人は東京支部予選準優勝で参加したが、4回戦で敗退した。
その後は日本各地、そして世界各地の波を求めて旅し、大会に出場し、サーフィンにかかわる仕事をし、
サーフィン専門誌の取材の為のサーフトリップなどに出かけるなど、約3年間、サーフィンオンリーの生活を送った。
蔵人の生活は、名の知れたトップ・アマチュアサーファーそのものであった。
しばらくして蔵人はロングボードへと移行し始める。
今まで何度か乗ったことはあったが、特別興味は湧かなかったという。
いつものようにハワイにサーフトリップに出かけた蔵人はエディ西崎に会い、彼を通してロングボードの魅力に引き込まれていった。
「もしかしたら、ロングボードは自分に合っているんじゃないか」
蔵人はそう思い始める。
「このボードで、こんな波を滑ってみたい」
ロングボードとのイメージは、どんどん広がっていった。
そして、ロングボードの大会に出場していたエディ西崎から、ロングボードの楽しさだけでなく、
ロングボードでコンピート(競技)することも教わっった。
日本に帰ると早速、ザ・サーフで、カリフォルニアのマイク・ミッチントンがシェイプするロングボードをオーダーし、
日本でもロングボードに乗る回数が増えていった。
そして、ロングボードを真剣に始めてわずか半年ほど後、
ロングボードではじめてエントリーした東京3区カップで優勝。
以来、ロングボードでエントリーした大会はすべて決勝まで進んでいる。
これは驚くべき確立である。
ロングボードとの出会いは、コンペティターとしての蔵人に、大きな可能性を広げた。
蔵人のライディングスタイルと絶妙にマッチしたロングボードは、
蔵人を常に優勝できるサーファーに成長させたのである。
そして、日本でも盛り上がりつつあったロングボードブームと共に、蔵人は時代に求められたサーファーとなった。
その年、’95年の全日本では、ショートボードとロングボード、ふたつのクラスで予選を勝ち抜き、本大会の出場を決めた。
そして、8月21日から千葉で行われた全日本。
ショートボードでは4回戦で敗退したものの、ロングボードでは順調に勝ち進み、見事優勝を果たした。
全日本での優勝は、サーフィンをはじめた頃からの蔵人の夢だったが、
蔵人はそれをロングボードで成し遂げたのだ。
こうして蔵人は、本格的にローングボードを始めてわずか1年足らずで、
日本を代表するアマチュア・ロングボーダーとなった。
そして、全日本での優勝は、蔵人に、世界選手権代表という、新たなる挑戦へのキップを導いた。
世界選手権代表の選考会も難なく突破し、代表決定の通知を受け取った。
と、同時に5年ぶりとなるドラマの撮影が目前にせまっていた。
蔵人は、5月に予定されていた世界選手権の終了後、俳優として本格的に活動を始めるつもりでいた。
ところが、世界選手権が10月に延びたことで、世界選手権前に仕事をこなさなければいけなくなった。
そのドラマは、高視聴率を誇るフジテレビの月9、「翼を下さい」だった。
「でもそんなに問題なかったですよ。昔の俺ならできなかったかもしれないけど、仕事と波乗り、
どちらにも集中できたし、上手くペース配分できて、かえってよかったかもしれない。」
蔵人は、サーフィンに没頭した5年の間に、知らず知らずのうちに、人間的な成長を遂げていた。
実は蔵人がまだ若い頃、監督を殴った事があるらしい。
世界選手権後に撮影に入った「傷だらけの天使」の監督・阪本曰く、それを聞いたとき、
「あー、難儀だなー」と思ったという。アウトサイダー以前に不良というイメージが強かったとも。
「ところが実際現場に入ってみたら、礼儀は知ってるわ、上下関係はわかってるわ、
自分で自分の生活をコントロールできるわで、非常にやりやすかった。
サーフィンの為に食事にずいぶん気を使ったなんて話も聞いたけど、
自分を律することなんかは特に、サーフィンから学んだんだろうね。」
蔵人自身も、『翼をください』の記者会見でこんなコメントをしている。
「昔はとんでもないヤツだった。今は一度アンダスタンドしてから行動するようにしている。」
初めてのサーフィンで海の家の看板を燃やしてしまった蔵人。
海の家で働く人々の顔が見えず、おそらくその海を愛するサーファー達の存在も考える事はなかっただろう。
打ち寄せる波はどれも同じに見え、海岸の砂の状況も、カレントの流れも、刻々と変化する海の姿も理解できなかったはずだ。
また、当時の蔵人の目には、どこのビーチもたいして変わらないように映ったにちがいない。
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しかし、今では、砂の状況、風、潮、カレント、はるか彼方のうねりの誕生まで、多くの事を理解し、
その上で打ち寄せる波のひとつひとつの違いを見極め、ひとつの波の変化を見切った上で波を乗りこなしていく。
成長するということは、おそらくそういう事なのだ……
3ヶ月にわたって行われた『翼をください』の撮影中にも時間を探しては海へ行き、
全日本にも出場して、2年連続優勝を果たした。
「絵描きの役で良かったですよ。日焼けしてもOKだったから」と蔵人は笑って言う。
そして、9月、撮影終了後すぐにハワイに2週間、カリフォルニアに2週間出かけ、
世界選手権に向けて最後の調整に入った。
ハワイとカリフォルニアで最後の調整を終えた蔵人は日本に戻ってきた。
そのままカリフォルニアに残り、現地で選手団と合流する事も出来たが、日本チームの一員として、
一緒に旅立ちたい、という想いが蔵人にあった。
1996年、10月1日、世界選手権日本代表チームは、ロサンゼルス国際空港に降り立った。
蔵人にとっては見慣れた光景だったが、今回は日本の代表として戦う為に、アメリカの地を踏んだのだ。
練習期間を終え、10月5日、いよいよ開幕の日を迎えた。
参加国は36カ国。
オープニングセレモニーでのパレード。
その時、蔵人は途中、ビルの上からビデオを撮る紀藤の姿を見つけて、身震いしたという。
多くの事を教えてくれた恩師の前を、行進する。
「これでひとつ恩返しができた」
蔵人はそう感じていた。
パレードの後には、それぞれの国から持ち寄ったビーチの砂をひとつにするセレモニーが行われた。
それぞれの国のサーファーにとっての愛すべきサーフポイントのビーチの砂を、一つの容器に集め、まぜあわせる。
こうして大会の成功を誓い合い、第16回世界選手権は開幕した。
蔵人が出場するヒートは3日後。
前日なかなか寝付けないまま、当日のヒートへ。
結果は、3位で次のヒートに進む事ができなかった。
しかし、世界選手権ではリパチャージ・システムが採用されていた。
日本でいう敗者復活戦である。
4人で行われるヒートでは上位2名が次のヒートへ。
4位は姿を消す事に。3位はリパチャージへと進む、というわけだ。
このリパチャージで、蔵人は順調に勝ち進み、ファイナル・リパチャージまで進む事が出来た。
最後のリパチャージはファイナル・デイに行われた。
「ファイナルの日にボードを持って会場に行けたことがうれしかった。
全日本でもそうなんだけど、ファイナルの日にボードを持ってないって事は、
もう負けちゃってるってことなんですよ。」
ファイナル・リパチャージでの蔵人にとってのキーマンはフランス人のアレクシス・ギャゾー。
アレクシス・ギャゾーに勝ってファイナル。
蔵人にはそのイメージがはっきりと出来上がっていた。
ビーチではチームメイト達が日の丸を振って自分を応援してくれている。
「自分の為に日本の国旗を振ってくれるってすごいことじゃないですか。
そのたなびき方が、まさにNHKの最後みたいな感じで、力強くてね。頑張れましたよ。」
日本チームの鬼のコーチとして知られる山本コーチが、ヒートに向かう蔵人に近寄り、声をかけた。
「真木、死ぬ気でパドルしてこい」
蔵人はその言葉に強くうたれた。
「どうしてもオレに伝えたいっていう気持ちが伝わってきた。
男が男に伝える言葉。スピリチュアルな言葉だった。」
甲高いホーンの音と共に、ヒートはスタートした。
蔵人は順調に波をとらえ、ポイントを重ねていく。
各ライディングのポイントは刻々と集計され、放送される。
蔵人のポイントはどれもライディング7点台とアベレージが低かった。
オーストラリアのジェーソン・ブレウェットが高ポイントを次々とマークし、1位で通過するのは間違いなさそうだ。
アレクシス・ギャゾーを破れば予定通り2位でファイナルだ。
しかし、アレクシスは8点台の高ポイントをマークした。
8点を上回るライディングをしなければ負ける。
山本コーチの言葉が脳裏をよぎった。「死ぬ気でパドルしてこい。」
蔵人は言葉どおりに死ぬ気でパドルしながら次々と波をつかまえ、
あらゆるテクニックを試みたが、どうしても8点台がでない。
選考会で日本代表を争ったサーファー達、
そして海で出会った多くの素晴らしいサーファー達、彼らの顔が浮かんだ。
カウントダウンが始まり、最後のホーンが鳴るまで、蔵人は波を追いつづけた。
3位。勝利の女神は微笑まなかった。
しかし、蔵人は『最高の感覚』を味わっていた。
もちろんファイナルには残りたかった。
しかし、応援してくれた仲間達、ビーチで見守ってくれた父、弟達、
そしてもう一人の父であり、恩師である紀藤。
蔵人のボードをシェイプするウェイン・リッチの姿もあった。
彼らに支えられ、全身全霊で戦った充実感に、蔵人は包まれていた。
蔵人の世界選手権は終わった。
その午後、ちょうどファイナルが行われているとき、蔵人は日本チームの仲間達と共に、
会場横でサーフィンを楽しんでいた。
プロとして参加した福地のショートボードに蔵人が乗り、福地は蔵人のロングボードに乗った。
弟達も海に入り、素晴らしい天気の中、ファンウェイブを楽しんだ。
ビーチではマイクと紀藤が立ち話をしながら若者達のサーフィンを見守っている。
「あの時のサーフィンは忘れられないね。最高のサーフィンだった。」
あの時のオレにはもう何の目標もなくて、もぬけのから。
この大会の為に一年以上さわらなかったショートボードを福地に借りて乗った。
やりたいサーフィンを久々に楽しめた。
「波乗りって楽しいな、波乗りがあってよかったなって、本当にそう思った。」
世界選手権を終えて帰国した蔵人。
もちろん、出場するからには優勝するつもりで臨んだし、ファイナルには残りたかった。
でも、5位という結果は自分なりに満足のいくものだった。
そして、コンペティション・サーフィンにひとつの区切りをつけた蔵人は、
ある映画の撮影に入ることを心待ちにしていた。
『傷だらけの天使』である。
’97年4月に、『傷だらけの天使』は公開された。
「真木は映画向きの役者だと思いますよ」監督の阪本は言う。
事実上の俳優への復活。
父・マイクは、蔵人の俳優としてのスタートをこう語る。
「よくうちのガキどもに言うんだよね。サーフィンじゃ食っていけないけど、
サーファーのマインドを持っていれば生きていけるって。
まぁ、中にはサーフィンで食っていけるやつもいるんだろうけどさ。
サーファーとして、頭の中は波ばっかりで、バナナもいで、魚とって生きていける。
サーファーとしてだけ生きるのも、悪い事でもなんでもない。
でも、それだと『おまえ、本当にそれでいいのかよ?』って思っちゃうんだよ。
いろんな生き方があるけど、自分のガキどもには、悔いの残らない人生を送って欲しい。
悔いなんて物は必ず残るんだけど、少ない方がいい。
それに、蔵人は、第三者的に見ても芝居に向いていると思うんだよ。
サーフィンは自分の楽しみの為には素晴らしい。
でも、音楽や芝居、芸能は、それを見たり、聞いたりする人に喜んでもらえる。
社会的に感動を与えて、夢を売るのは、とても素敵な事。
ちょっと前のことだけど、蔵人が『今、仕事が楽しい』って言うのを、初めて聞いたよ。
楽しい仕事でお金がもらえる。それで人に喜んでもらえる。
で、休みがあればサーフィンして、休みも楽しい。こんな素晴らしい事はないと思うよ。」
ついこの間、『BROTHER』が公開された。
俳優としても板につきつつある蔵人。
暇なときはサーフィン。
最近、モトクロスにもハマり始めた蔵人。
真木蔵人のストーリーはまだまだ続く……
引用・参考文献
サーファー・真木蔵人 富山英輔 著 ?出版社
Off Road BUM 1999 No.1 特集?マイク眞木・真木蔵人親子対談『バイクとサーフィンと』より
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